2017年01月25日

大久保忠利さんの「書きなれノート」~思考や感情を言語化・コトバにすることの大切さ

ブログでは、パチくらとお気楽気分でタイピングもしていますが、
中には、そんな文章量とかどうやっているの?
って疑問を持っている方もおられるかもしれませんね。

いやね、ホント、お気楽にパチくらとやってるわけでして、まさに「片手間」。
おしゃべり感覚です。
ほとんど反射的に書いています。
こんな感じで、ズンズンとやっているわけでして、ホント、おしゃべり感覚。

で、思っていることなどを、こうしてコトバにして言語化することが楽しいといいますか、
面白いといいますか、お気楽といいますか、娯楽でして、
いや、ホント、たのしいモンです。


で、こうした「コトバをつむぐ」趣味のルーツを思い出しましてね。
そういえば、10代の頃、悩める青春街道まっしぐらな時代、
いやいやあっしの場合は、結構、本格的に自己探求なんかやってしまったものですから、
キリスト教神秘主義でいわれる「暗夜」の世界に入り込むことになり、
かなーり深刻にもなってしまったのですが、
その時代、図書館でたまたま見つけた本があったものです。

それが、大久保忠利さんという国語学者の著書。
言語学者でもいらっしゃいましたね。

タイトルをすっかり忘れてしまっていたのですが、
大久保忠利さんの著書は、何冊かありましてね。
「文章の切れ味」とか「話しかた第二歩」とか、
あとなんだっけ、他にもありましたね。

大久保忠利さんの「書きなれノート」~思考や感情を言語化・コトバにすることの大切さ

で、その大久保先生の本に「書きなれノートのすすめ」というのがあったわけです。
「書きなれノート」

これはどういうものかといえば、自分が思っていること、感じていること、
なんでもいいので、コトバにして表現してみるという、自由ノートです。
なんでもいい。

ただし、「わかりやすく」、「論理的に」、「毎日書く」、
といったルールがあります。
要するに、実際に役立つ「書く力」を付ける練習です。

心に浮かんだこと、頭に浮かんだことを、片っ端にノートしていってもOK。
ただし、わかりやすく、論理的に書いていきます。
でも、日記とは違います。
毎日書くのですが、日記じゃあないんですね。
わかりやすく、論理的に書く練習です。


で、ね、これがものすごく楽しい。
いや、最初は、大変^^;
でもだんだんと楽しくなっていく。

論理的に書こうとすると、思考の構造性も考慮するようになります。
そうなると、内的感覚を、構造的に表現しようとしたり。
で、「書く」ということ自体が、心の中にあるモヤモヤを解消する。
楽しいといいますか、心がスッキリする。
構造性をともなって表現しますと、心の仕組みも自覚できるようになります。

だから、たとえば何か嫌なことがあったなら、
「書きなれノート」に書いていくわけですね。
どうして、嫌だと感じたのか、どう反応したのか、
どうすればその嫌な気持ちから解放できるのか。
そんなことを、分析しながら、また構造的に、論理的に、わかりやすく
延々と書き綴っていくわけです。

私にとって、この「書きなれノート」は、自己分析の場であり、問題解決の場であり、
自己表現の場であり、とにもかくにも、心や頭に浮かんだことは書き綴っていくという、
秘密のノートだったものです。

で、200ページの大学ノートを用意しましてね、どんどん書いていく。
そんなノートが、十数冊にもなったものです。
ほかにも、メモ帳みたいなものも数冊用意しておく。

当時、一体、何を書いたのか。
ほとんど忘れてしまいましたが、ノートは残っていますので、
探してみて、機会があるときに見てみたいとも思っています。
「書きなれノート」は、3年以上は継続しましたね^^;



「書きなれノート」。
これはおすすめ。
自分が思っていること、感じていることを表現していくにつれて、
どんどんシャープにもなっていきます。

モノの見方もシャープになるし、表現の仕方もシャープになる。
文章構成も巧みになってくる。

で、これがレポート作成から、会社に勤めるようになってからの報告書、
資料作成などで、ものすごく活かされたものです。
ホント。
文章や資料作成能力が、どれだけありがたかったことか。
こういうのは、社会人であるなら、みんな実感すると思います。


実際、こうしたことをコラムで指摘している方も
いらっしゃしいます。

◎深く考えられない人は、圧倒的に文章を書く量が不足している
http://waterman.hatenablog.jp/entry/2015/10/06/203000
深く、粘り強く考えることができないと、詰めが甘い仕事しかできません。当然、ミスも増えますし、何かを提案しても一人よがりになり、共感してもらうことができない…。だからこそ、深く考えられるようになることが大切で、そのためには文章を書く量が大きく影響します。言い方を変えると、文章を書く量が少ないと、いつまで経っても仕事の質は上がらず、詰めが甘いままです。決してうまい文章、美しい文章を書く必要はありません。自分の考えをまとめて、文章でアウトプットし続けることで、思考はどんどん深くなっていきます。

このコラムで書いてあることは、本当にその通りです。
文章を書く量が少ないと、思考は深くならない。
仕事の上でも、思考の深さは重要です。
思考が深くなり、こなれてきますと、必要以上に枝葉に入り込まなくなり、
大元を押さえた上での精妙な考察や洞察ができるようになってまいります。
こうした能力は、仕事上、計り知れないほどプラスに作用します。

こうした洞察なり考察の資質は、精神的に何かを求める場合は、もっと必要になります。
さらに精妙精緻な考察も必要になります。
言語化する能力を磨くことも大切になってまいります。



この「書きなれノート」の恩恵は、たくさんあったのですが、
中でも、一番インパクトがあったのが、「書く視点・スタンスの発見」というものでした。

こうして「書きなれノート」につづっていきますと、書いている立ち位置といいますか、
一つの「視点」「スタンス」があることに気づくわけですね。

どういうことかといえば、どういう心理状態をベースにして、自分を分析しているか、
問題解決を図っているのか、表現しているのか、ってことなんです。

これね、この一文を読んでピンと来た方は、センスあると思います。
ええ、瞑想のセンスもあると思います。
当たり前に聞こえるかもしれませんが、ものすごく重要。

不安な心理をベースにしていると、自己分析も不安に染まりやすくなる。
心配な状態がベースになっていると、書いている内容も心配色を帯びてくる。
楽しくて、はしゃいだ状態だと、やっぱりそんなカラーになってくる。

当たり前のように聞こえるかもしれませんが、これが大発見だったわけです。
この書く視点、スタンスの発見といいますか、気づきは、大発見でして、
ホント、もう、小躍りしたものです。


端的にいいましょう。
何故、悩むのか。
何故、心配するのか。
それは、悩み、心配するモードにハマっているからです。

しかし、そのモードから離れたフラットな視点、スタンスに立てば、
あれま不思議、とたんに悩みや心配に距離を置くことができます。
悩みそのものを解決できなくても、悩みの深刻度が減る。
悩みと距離を置くことで、距離を置ける立ち位置に立つと、心がラクになる。

「なーんだ、そんなこと」と思う方もいるかもしれませんが、
これはものすごく重要なことだったりします。
といいますか、これが腑に落ちて、ストンと納得できますと、
天にも昇る気持ちになるわけですね。

「悩みの正体、見抜いたり!」って感じですね。

悩みに巻き込まれている、悩みと一体化してるから、悩み続ける。
この発見。

実際、フラットな視点・スタンスがありませんと、どこかちぐはぐした、
ピンボケな分析などをしてしまうものです。
どこかおかしい。
しっくりこない。

しかし、この「おかしい」「しっくりこない」という感覚を追及していくと、
思考する公正な立ち位置、第三の視点に気づく。見つかる。
それが、フラットな視点・スタンス。
今でいう、「賢者モード」というのは、近いかもしれませんね^^;
ま、そんな偉ぶった心根はないんですけどね。
偉ぶったり、蔑視したような心の無い、まさにフラットな視点。
公正なスタンス。

実際、フラットな視点・スタンスを踏まえて、自己分析したり、問題解決を図ったり、
表現してみたり、あれやこれやとやっていきますと、ツボにはまる感じがしてくる。
心が、より鮮明に見えてくる感じがする。
しかも、そのフラットな視点なりスタンスが、ますます鮮明になってくる。
で、日常生活においても、そのフラットな視点なりスタンスが、
キープできるようにもなってくる。
これが、大発見だったわけです。
悩み、苦しみ、心配するモードからの脱却、脱出口だったわけです。

悩み、苦しみ、心配するのは、そういうモードにハマっているからなんです。
一体化しているからなんですね。

これに気づいて、フラットな視点やスタンスを見つけ、そこに立ち、
さらに、そのフラットな視点やスタンスを洗練させ、
よりゼロ地点を目指して、キープしていく。




で、ずっと後になってから、このあり方が、瞑想のあり方と同じことを知ったものでした。
原始仏教やテーラワーダには「気づきの瞑想」「ヴパッサナ」という瞑想があります。
この瞑想の本質は、「自分から離れたフラットな視点・スタンスから行う」ことなんですね。

20年くらい経ってから、この瞑想を知ることになるのですが、
その原理を知ってもう仰天したものでした。
「それ、今までずっとやっていたよ!」と。
このシンプルな実践が、ブッダの瞑想法として確立していたことに、
たいそう驚いたものでした。

ちなみに、「気づきの瞑想」がうまくいかない人。
その理由はいくつかありますが、このフラットな視点からやっていないのも、
うまくゆかない理由の一つです。
悩める心で観察したって瞑想したって、ちっとも手応えを感じませんよ。
良い意味での「賢者モード」になって、瞑想することですね^^;

で、このフラットな視点・スタンスを、よりフラットにしていく、洗練していく、
精妙にしていくことが、瞑想を深める秘訣でもあったわけです。
いわゆる「中庸」というものです。
そしてこれが「自然体」というものなわけです。

どれだけフラットで、中庸であり続けていけるか。
普段の生活でもそうです。
で、これを継続し、自己を離れることをやっていきますと、
見性という、次元を超えた視点があらわれてくることも起きてきます。
観照意識のあらわれです。


こうした飛躍した視点から見ていき、ノートしていきますと、
自分をより客観的に観ることができ、表現もできるようになります。
まさに「俯瞰(ふかん)」。

自分の長所もどんどん見えてくる。
短所も見えるが、同じように長所が見えまくってくる。
そして、自分が愛おしくも感じられる。
素晴らしい生命じゃないかということが、おのずとわかってくる。
等身大に自分を見つめ、そしてどの生命とも同じように
愛すべき存在として見られるようになっていく。
文字にして書きあらわすと、それがフィードバックもされて、
ますますハートフルにもなっていく。
一種のアファーメーションでもありましょう。



大久保忠利さんは、私の恩人であると思っています。
一度もお会いしたことがありませんが、
大久保先生が提唱されていた「書きなれノート」。
本当にありがたい。
使い方によっては、現代の「公案」にもなり得る。

「書きなれノート」のお陰で、文章を作る楽しさもわかりましたし、
表現することの楽しさ、言語化することのおもしろさ。

何よりも、思考や感情を、できるだけ精妙に表現することで、
さらに精妙さを増し、いわゆる「哲学」をも飛躍した世界への突入にもなり得たこと。
この恩恵は、はかり知れません。


自分が思うこと、感じること。
これを、できるだけ言語化してみる。
コトバにしてみる。
ノートに文章化すると、後で、思考のプロセスは、足りないところ、
至らないところを再確認できます。

文章がどうしても苦手という方は、口に出して表現してみてください。
コトバにする。
言語化する。

本当に素晴らし効果があります。
大久保忠利さんには、ホント、感謝しています。
お会いしたことがありませんが、恩人ですね。

書を通じて恩恵を被る。
だから、読書は大切だと思いますし、
書籍に金銭を惜しむことはしてはならんとも思う次第です。


今では「ほめ日記」というのもあるようですね。
自分をほめて、自己肯定感を養ったり、自分評価を高める
トレーニングじゃないかと思います。

自分の気持ち、考え、感覚を、コトバにし、言語化し、
わかりやすく、論理的に書き続けることは、
自分自身に、途方も無い恩恵が授かるようになります。
地味ながらも、大変パワフルなトレーニングです。













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Posted by トリステーザ@ at 10:01 │文章・読書・言葉